物事には必ず良い面と悪い面がある
センスの良いモノを見続けてセンスが良いモノが作れると思い込む病
センスの良いモノ、一流のモノ、最先端のモノを見続けて目が肥えているといつの間にか自分もそのセンスの良いモノの作り手の仲間だと勘違いしてしまう。
「俺はセンスの良いモノを見続けていて、見ていない人間よりも一段上のクラスに存在している」
↓
「センスの良い俺はセンスのいいものが作れる」
↓
「だから今見ているこの作品の作者よりも一段上」
という風に。
見る、聞くという体験は確かに大事だが、クリエイションに関わる人間ならば最も大事なことは自ら創作すること、そしてそれを世に出して問うことだ。批評家を目指すならともかく、作り手を目指すならばこれは大前提のはずだ。
それをしないでネットでTumblrやVimeo、Pinterestなどのハイクオリティな作品を見続けて目が肥えてしまい、いつの間にか無意識に「知っている」→「作れる」という構図が出来上がってしまう。
それを防ぐには作品を世に出し、良いことも悪いことも批評を受け止めて消化するしか無い。
理性と恐怖心
俺が人を判断するときに気をつけていること、それは行動を律する基準が「理性」か「恐怖心」か、という点だ。
礼儀作法や気遣いなど、権力者や目上の人間に対して恐怖心で気遣っているのか理性で気遣っているのかでは、見た目は同じでも中身は全く違う。
何故かと言うと、恐怖心で自分を律している人は恐怖心が無くなったら急に幼稚で横暴な人間に変貌するからだ。
理性で行動を律してる人は目下の人間に対しては敬語じゃなくなるだけで別段態度は変わらない。
理性側の人は話し合いも比較的フラットな関係で理路整然と話し合えるが、恐怖心側の人は対等な立場で話し合いなどできない。従うか従わせるかだ。
いわゆる体育会系と呼ばれている人達がいるが、その中でも理性側か恐怖心側の2種類が存在するので一緒くたに考えないように気をつけている。
流れに任せて動かされたい人は恐怖心側の人間との方が付き合いやすいのかもしれない。自分一人で考える機会が少ないからだ。
しかし物事を追求したい、独立したい人は理性側と付き合う方が話が進みやすく気疲れが少なくて済む。
幸せを願った方が勝ち、という考え方
あなたは俺のことを嫌いなのかもしれない。しかし俺はあなたの幸せを願っている。
この場合、幸せを願った方が勝ちだ。俺を憎む人と同じ目線に立って、憎み返したり復讐したりするのは同じレベルに下がるのと同じ。
俺には他人の「嫌う」という感情を受け止めなければならない義務は無い。憎み合う先に心の平安は無い。人を嫌うということは嫌う側の人間の問題。俺には何も関係が無い。
俺が俺らしく振る舞った結果、ウザがられようが出る杭を打たれようが、その不快な感情は本人にしか残らない。人を嫌い、罵倒することの先にあるのは、嫌った側のダメージしかない。
憎みたいならお好きにどうぞ。俺は俺のやりたい先に進みます。