algotのブログ

モノ作ってるときに考えてることのストック

勇気の無さを正義感に変換するな

嫌な人間ならやり返すなり逃げるなりすればいい。
ダメな環境なら良い環境を探して移ればいい。
 
ダメな環境を良い環境に変える事はほとんどの人には不可能。トップに立って革命を起こさないと無理。
であれば良い環境を探すしかない。
好きな人と付き合うしかない。
 
ただ単に行動する勇気が無いのを正義感に変換するな。
 
他人が自分の為に動いてくれると思うな。他人に正しさや奉仕、平等を要求するな。
現実は真逆。自分だけが良い思いしたい、チヤホヤされたい、責任取りたくない。それが現実。ルールさえ破らなければ陰湿な人間は平気で裏工作を仕掛けてくる。
 
気が弱く立場も弱ければ足を引っ張られコントロールされスケープゴートにされる。影響力の無い奴がどうなろうと知った事じゃない。自分と仲間が生き残れればそれでいいという考え方。
 
もちろん礼儀や和を乱すような事をすれば阻害されるのは当たり前。
 
都合のいい人になるな。
「やりたい」と言うしかない。

「妬みと不幸なオーラを纏う下層グループ」に目をつけられるな

世の中待ってればきっといい事が上から降ってくると思ってる連中がいかに多いことか。
 
頑張ってればきっと見返りがある、私がやりたいことをいつかだれかが恵んでくれる、という恒常性バイアス。
 
そんな機会はおそらく一生来ない。
 
やりたいことをやりたい。その為には
  • 自己責任で
  • 自分からやりたい事を主張する
  • アピールする
  • 交渉する
  • 新規開拓する
これをやらないとやりたい事は絶対に得られない。これをやっても得られない可能性も高い。
 
誰もわざわざ他人にメリットを与えようなんて思わない。自分自身も与える事は無い。
 
むしろ今まで行動せず報われてこなかった「妬みと不幸なオーラを纏う下層グループ」に目をつけられて足を引っ張られて疎外されいい仕事を奪われて、都合良く搾取された挙句捨てられる。都合の良いスケープゴートとして使い捨てられる、
 
どこ行ってもそんな連中はいる。コイツらに目をつけられたら終わり。絶対にやり返し、今後も関わってはいけない。

人は全ての意思決定を「感情」で行なっている

論理は後付け。起こった結果に対して、後付けで自分に都合の良いようにものごとを解釈しているだけ。
 
なので、行動を起こしてその結果の「事実」を作る事が何より大事。それが成功か失敗かは重要ではない。
 
例え大失敗であろうと、後付けの論理解釈でいくらでも良いように解釈できるし、逆もまた然り。
 
決断を後回しにして、決定事項から目を背けても意味はない。不安の解消にもならない。だって起こった後でいくらでも自分に都合の良いように解釈できるから。
 
決断は即決しようが塾考しようが関係ない。結果はどうあれ解釈の問題でなんとでもねじ曲げられる。ビジネスならなおさら。
 
であれば決断は早ければ早い方が良いし、正確さや正しさを求めて時間がかかるなら、間違ってでも決断した方がいい。それで問題が発生した後に逐一修正していった方がよっぽど前に進める。

モチベーションはどうやったら出るのか

モチベーションが出る状態とは、一言で言うと「具体性」が見えてきた状態、つまり完成形とこれから始める作業の見通しが立つ状態だ。

 

つまり「意欲」や「能力」といったエネルギーを放出できる道筋ができた状態である。

 

ヤンキー上がりのボクサーで例えれば、ケンカで培った「身体能力」や「闘争心」のエネルギーをボクシングを通して放出できることを理解した状態だ。ここを理解できれば相手を倒す、チャンピオンになるという具体性が見え始め、それを達成する為であれば地道で過酷なトレーニングにもモチベーションを持って頑張ることができる。

 

何もない状態からモチベーションが湧くことなどはあり得ないのであり、具体性が見えない限りモチベーションが湧くのを待つのは無駄である。

 

しかしそもそも具体性はどうやって見えてくるのか。

矢吹ジョーが丹下段平に出会ったのは運でしか無いが、誰もが運に頼ってはいられない。

意図的に具体性を見つけるなら「計画性」と「忍耐」が必要になってくる。普段から欠かさず情報収集し、達成プロセスや思考回路のサンプルを集めておく。そして具体性が見えてくるまでひたすら案を出し続ける。大方は良い案が浮かばないことが多いが、このプロセスは忍耐が必要不可欠だ。ひとたび具体性が見えてくれば後はモチベーションを持って行動力の虜となれるが、その域に達するまではひたすら計画と忍耐を続ける必要がある。

 

つまりモチベーションは最初から勝手に出てくるものでは無く、「計画性」と「忍耐」の後から出てくるものなのだ。

好きな学問や仕事はどうやったら見つかるか

その前にまず学問や仕事における「好き」とは何か。一言で言うと「自分でコントロールできるもの」。技術や知識、経験値を自分のものにし、自在にコントロールする感覚が面白い、好きという感情に繋がる。

 

好きに至るまでの技術や知識、経験値というものは生半可なものでは身につかない。特定のジャンルを「好き」になれるまでの技術を身につけるには時に途方も無い努力や苦痛に耐える必要がある。

 

進学や就職で「自分が好きなモノってなんだろう」と頭を悩ませることが多いかもしれないが、自分でコントロール出来るものが無いのであれば考えても無駄。

音楽を聞くのが好きだからミュージシャンになろうとするようなもので、受け手としての「好き」は発信側の「好き」とは全く違う。仕事や学問はすべて発信側のモノで、好きで発信するものはコントロールできる技術や知識、経験値があって初めて成立する。

 

世の中様々なジャンルの仕事や学問があるが、それぞれその道の専門家がいる。その道を追求出来るということはそのジャンルが好きだということ。嫌いだったら長い時間をかけて追求なんて出来ない。

そういった意味で言えば世の中に面白くない仕事や学問は存在しない。努力して技術をものにし、追求していけばどんなジャンルだって面白い。

 

つまり物事をやり続けて追求する姿勢があれば、人生何をやっても好きになれるのである。

特定の好きなモノが無くなってしまった時期

全てのものからより多くのものを得ようとして、目に入るもの全てを受け入れようとしてしまった。


単なる知性の貧乏性である。アレもコレも見識を深めればより面白くなりそう、しかもネットを使えば多種多様なジャンルの情報が際限無く目に入ってくる。便利な情報収集サイトがザッピングを加速させていく。

しかし時間は有限。時間をかけて一つ一つ考えを重ねる暇も無く、他人の批評の上澄みをかすめ取った知識しか残らなくなってしまった。

 

そしてついに特定の嗜好が無くなってしまった。すべてのものから得ようとして。なんにも面白くない。

 

好きになるということは自分でコントロール出来る感覚が必須。知識と経験を活かして自分なりの考察や成果を上げることこそが面白い。聞きかじった知識の上澄みのみでは逆に他人からコントロールされるのみだ。

 

そういった過去を反省し、今は特定のものを一つ一つ丁寧に時間をかけて考察を上げるように努力している。トレンドだろうと文化的価値が高いと言われようと、貧乏性からくる知識のドカ食いは醜いメタボを生むだけ。

コントロール出来る領域は守り、あくまでそこを主軸に動いていきたい。

嫉妬は効率の良いエネルギー

巷ではよく

「嫉妬というものは他人の足を引っ張ったりストレスが溜まってメンタルを損ねるので、なるべく嫉妬心は持たないようにしよう」

というような事がよく言われるが、嫉妬を無くすなんて無理に決まってる。それは感情を無くすようなものでロボットになるということだ。感情を無くしたらモノづくりやコミュニケーションなんて出来ない。

 

そもそもダメなのは他人の足を引っ張ったりメンタルを損ねることであって、嫉妬自体は行動を促すかなり効率の良いエネルギーになり得ると思う。なんせ羨ましい人をみるだけで瞬時に沸き起こる感情だから、これほど効率のいいものは無い。

 

嫉妬というエネルギーを使って創作活動やアピールをして認められる努力をすればいいのだ。エネルギーが有り余っているのに抑え込んだり無くそうとするからストレスが溜まってメンタルを損ねる。

 

動けるエネルギーがあれば何でも使った方がいい。金が欲しい、アイツに勝ちたいでもなんでもいい。動機が不純に見えるが、動機なんてものはそもそも曖昧なもので、最初は女にモテたい、目立ちたいなんていうキッカケで始めたものが活動を進めていく内に人を楽しませるのが嬉しい、理解して構築していくのが楽しいといったものに変化していく。そんなもんだ。

 

一番いけないのは無気力になること。これにハマると生きる実感も喜びも何も感じられなくなる。

 

嫉妬自体は悪じゃない。他人の邪魔をしたりストレスを溜める事が悪。

無くそうとするのではなく効率の良いエネルギーとして自身の活動にどんどん活用していくべきだ。